三神八四郎さんの郷里・お墓
を庭球部100周年の編集委員会が取材して来ました
早稲田大学庭球部・100周年記念編集委員会では、伊藤利裕編集長(S45)・横山芳治カメラマン(S45)・伊藤さんのお嬢さん瑞恵さん・小林公子ライター(特別応援)の4人で上記取材、日帰りの旅に行ってまいりました。
小林公子さんのレポートと写真を掲載いたします。
2002年6月24日 三神八四郎さんのお墓参り
「ラケットの形に深く石面に彫りこんで、ボールを家紋に浮き彫り」してあるという三神記念コートの三神八四郎さんのお墓を探しに、私たちは甲府市大里町の東光寺を目指しました。ちなみに瑞恵さんは、お父さんの運転が心配で、ドライバーをかって出て下さったのです。
大里町には難なくたどり着いたのですが、東光寺がなかなか見つかりません。小一時間ほど探し回り、ついに発見したときは、全員ほっと、安堵のため息をつきました。
三神さんのお墓は、紫露草に囲まれていました、多分2週間ほど前は花がきれいだったことでしょう。お墓を水できれいにし、花をお供えして、ご冥福をお祈りしました。
南洋院霧海彗針居士。三神さんの戒名です。三神有長男四男、八四郎、大正8年11月8日没、33歳、とお墓に彫られています。自分の死期を察した三神さんは、入院していた地、フィリピンのダバオでの水葬を希望し、遺髪を郷里の甲府に送るよう、死を看取った友人に頼んだそうです。自分の死を運命と受け止めていた三神さんでしたが、「親愛なる友といえるラケットとついに別れるときがきたか」とつぶやいたと知って、テニスを愛する者としては、胸が痛みます。
2002年7月2日 三神八四郎さんの姪御さんにお目にかかる
お墓の場所を教えてくださった三神家の三神尚長さんのご配慮で、姪御さんの三神美和さんにお目にかかることができました。美和さんは98歳の現役の女医さん。明治20年生まれの八四郎さんが17歳のとき、つまり明治37年に美和さんが生まれたことになります。
「はっちゃんはアメリカのシカゴ大学に留学しましたし、帰国してからは大阪の藤田組に勤めたので、たまに家に帰るくらいでした。帰るとたくさんある穀倉の中の、いちばん距離のある倉の壁に向かって壁打ちをしていました。小学校6年生だった私もテニスを教えてもらって、女学校で庭球部に入ったんですよ。もの静かで、温厚、お酒も飲まない、いい叔父でした。」
八四郎さんは、はちしろうさん。11人兄弟の8番目の子供で、4人目の男の子ということ。親戚間では、はっちゃんと呼ばれていました。すぐ下の弟は吾朗さんで、「ベースボールと日本野球」(佐山和夫著)によると、やはり早稲田大学からアメリカのイリノイ州に渡り、ノックス・カッレジに入学、野球部のキャプテンを務めました。独立プロ野球チーム「オール・ネーションズ」で夏期休暇の間のみプレー。快速のショートストッパーとして注目を浴びた、日本人プロ野球選手第一号です。
当時にあって、7人の男子のうち、4人が留学しています。兄弟のお父さんはどんな人だったのでしょう。若い頃、長崎に留学、蘭学を学び、息子たちに世界を知ってほしいと望んでいたと思われます。県会議長を務め、甲府電力を創り、大隈重信候を尊敬し、交流もあったという三神有長さんにも心惹かれるものがあります。
text=小林 公子
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